-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA1 こんにちわ、松本@仕事の真っ最中になにやってんだ! です。 なんか妙に(ごく一部でのみ…かな?)盛り上がっているスレッドになってしまい ましたが、さすがに元タイトルからは離れすぎてしまっていますので、勝手にタ イトルを変えてみました。 すでにかなり脱線モードになっていると思いますので、私もちょっと考えるとこ ろを…。 takezou wrote:
takezouです。
On Thu, 15 Feb 2007 22:52:16 +0900 野宮 賢 / NOMIYA Masaru <nomiya@galaxy.dti.ne.jp> wrote:
野宮です.
[...]
竹山さん> 主語、動詞がはっきりしている分 竹山さん> ==> 日本語のような曖昧さが少ない。 竹山さん> (ロジカルに考え、ロジカルに表現する。)
学生時分,第2外国語として「ドイツ語」を選択しましたが,これほど迄に論理的な 言語があるのか,と感動しましたが. 英語以上に言語体系が論理的なものもあるでしょうが、bugzilla などでは ほとんど英語になっていると思いますので、あえて「英語」を取り上げて います。(途中で挫折しましたが、私も第2外国語は「ドイツ語」を選択。)
竹山さん> #(日本で普通に生活する場合にロジカルさはあまり必要ないのではと思います)
日本が「良き法律家は悪しき隣人」という格言の産み出される社会である,という のは重々承知しています.が,日常生活に関する
英語 -- logical 日本語 -- illogical これは、あくまで、私の文化(言語体系)、対する思い(思い込み) というものかもしれませんけど...
文章が論理的であるか/どうかは、確かに書き手の思考様式依存しますが 私が言っていること(感じていること)は、言語体系についてです。 無意識に書いたとしても logical になる。 無意識に書いたとしたら 必ずしもlogical になるとは限らない。 #英訳できない日本語。英訳し難い日本語っていっぱいありますよね。 #曖昧さの為に英訳し難いというケースです。 #(ニアンス(文化)や置き換えのきかない単語ではなく)
表現が必ずしも logical になるとは限らない(日本語)で、ゆるゆる感の 日本で生活していると logicalさをあまり必要しないで生活できる のではないか? #本当は、そういう生活が理想ですけど...(私の中では。)
「論理的」ということと「ロジカルである」ということが必ずしもイコールでは ないことにまず気をつけないと、混同して話がすれ違いやすくなるでしょう。 そこらへんについては、以下のブログ http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1207 及び、そこから辿れるリンク http://www.din.or.jp/~tud/diary/990811-20.html#990813 あたりを読むと「ああ、なるほど…」とうなずける部分が多々あるのではないか と思います。
bugzillaのことに話を戻します。 ・岩井さんも言われるように、bugzillaへの投稿がopenSUSE(SUSE linux)の 改善の早道。 ・bugzillaは、英語でやり取りをしている。 (多分、中学生レベルの英語(基本英語)を駆使すれば可能。) | V openSUSE(SUSE linux)の改善方法(効果的な)が示されていて なぜ、実行しないのか? ==> 論理的なやり取りが苦手なのか? #言語体系(日本語)が潜在的にそうしているのではないか。 #教育的ディベートなど論理的に議論する訓練を受けてきて #いないからなのではないか? #私が感じるところはこの点にあります。
で、上で紹介した文章を読むと、takezouさんの言わんとしていることが見えて くるのではないかと思いますが、いかがでしょう。 でも、ただ英語でやりとりすればいい、というものではなく、英語(文化圏の人 たち)的な発想を理解し、ネイティブに英語を組み立てる必要があるのではない かと思います。つまり、いったん日本語を頭の中で組み立て、それを翻訳した英 語だと、元の思考回路は日本語のままですから、なかなか伝わりにくいかと。レ ベルとしては中学英語だとしても、この「ネイティブに英語を組み立てる」とい うことがなかなか日本人には難しいことです。 私が考えるには、ヨーロッパ圏の文化(英語ももちろんその中の言語です)と、日 本の文化の違い、とりわけ民主主義の歴史の長さの差が大きいのではないかと。 ここでいう民主主義とは、古代ギリシャ都市国家に始まるデモクラシーのこと で、要は「演説の文化」があったかなかったか、の違いということです。 専制主義、あるいは主従関係が固定しているような状態では、上の者の意志を下 の者に伝えるだけでコトは足りますから、そこにレトリック(修辞学)、雄弁さは 必要とされないでしょう。ところが、多数決を原則とする民主主義では、自分の 考えに同意してくれる人をどれだけ獲得できるかが重要になってきますから、ど うすればより効果的に相手の心を掴めるかという「テクニック」が発達していく わけです。 このことは、たとえば選挙戦における日本とアメリカでの演説の重要度の違いを 見てみれば分かり易いかと思います。アメリカの大統領選などでは、ひとつの演 説が形成を大きく変えてしまうようなことってしばしば起こりますよね。対し て、日本では相変わらず地盤、看板、カバンが大きくものをいい、選挙カーはひ たすら候補者の名前を連呼し、思想や政策を訴えるより浪花節的なお願い(これ はこれでひとつのテクニックではありますね)の方がしばしば効果的だったり…。
竹山さん> #私の場合、「ディベート的な発想」がないと最初から投稿しないかも。 竹山さん> #"相手を打ち負かそう" とは思っていませんが、"負けないように" とは 竹山さん> #常に思っています。
力量ある技術者らしいストイックなスタンスには好感,否,それ以上に羨望の念す ら感じます. が,この竹山さんのようなスタンスが無ければ.bugzilla に投稿するな,という意 味ではありませんね? そうでなければ,徒に敷居が高くなるだけですよね? あくまで、私の場合はということです。(例外処理ばっかりしているかな?) #1つの参考にしてくださいという意味です。(失敗例/成功例も含め)
もともと、長期戦になるかもしれないことを想定しています。 言い続けるなら --- 勝たなくても良いけど負けないこと。 負けると、自分の言っていることが間違っているのかな? とか、モチベーションが下がってしまうでしょうね。 #そうしないと自分自身が長期戦的に耐えられないのでは。 #(あくまで、私の場合)
ディベート(ちなみにディベートというのは最初からお互いに相容れない結論あ りき、というところから始まり、そのやりとりを聞いている第三者がどちらの方 に分があるかを判断するものですから、ゲームみたいなものですね)、議論と 言ってしまうと、どうもそこには対立的な図式が見えてしまい、勝ち負けみたい な基準で捉えがちなんですが、要は、どれだけ味方(賛同者)を増やせるか、が重 要なのではないかと思います。 仮に相手を言い負かすことができたとしても、それでヘソを曲げられてしまって は元も子もなくなる、ということだって考えられます。「アナタの言っているこ とは確かにスジが通っているかもしれない。でも、私が訴えていることが実現で きるなら、私のみならず、アナタも、他の人もハッピーになれるんだ。だったら どうするべきか、自ずから答えは導き出されると思わないかい?」というような 感じで相手をこちらに引きつけてしまえるのが理想のような気がするのですが、 甘いですかね。 - -- □●□ _/_/_/ To be Happy! _/_/_/ □□● _/_/ Satoru Matsumoto _/_/ ●●● _/ helios_reds@gmx.net _/ -----BEGIN PGP SIGNATURE----- Version: GnuPG v1.4.2 (GNU/Linux) Comment: Using GnuPG with SUSE - http://enigmail.mozdev.org iD8DBQFF1VECXnHIfHE6+z0RAsnlAJ9//B19aUcD6KUAUQd1GNzqRmFl/wCfdcPU 4Eqp/9OhnElgYt9Z9s7Vz34= =z1IB -----END PGP SIGNATURE----- --------------------------------------------------------------------- To unsubscribe, e-mail: opensuse-ja+unsubscribe@opensuse.org For additional commands, e-mail: opensuse-ja+help@opensuse.org